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『戦争と平和』 トルストイ

上下巻くらいのつもりでアマゾンでポチったら4巻ものだった。

届いてみると一冊ずつの分厚いこと。

ハノイに持ってきて棚に並べてみると四冊分の厚さに舌を巻き、なかなか手が出なかったのだが、離職中でこんなに時間があるのは人生にも他に無いだろうということでゴリオ爺さんの後に読み始めた。


ロシア文学あるあるだが、普段読んでいる光文社とは違って、登場人物の名前が載っている栞があるわけではないので最初の1ページめから名前と関係性にてんてこ舞いでなかなか進まなかった。

50ページ、100ページと読み進めても登場人物が増えるばかりで一体誰の何の話なのかが全く検討つかないので、一瞬だけネットで主要登場人物を検索して一瞬だけ主な登場人物がこの3人くらい、ということを確認して読み進めていった。これには非常に助けられた。

とはいえ、この巨大な物語に大量の登場人物が出てくる事自体がこの作品の真骨頂であろう。

戦争という栄光の極みであり、愚の骨頂である事象を多面的に描き、それ自身を事件ではなく事象として表現するために必要なアプローチなのだと読み進める中で感じた。

それだけスケールの大きな作品なのに、冒頭のシーンではワシーリイ侯爵の禿頭に注目がいってしまっていたように記憶している。今一度読み返してみると、アンナ・パーブロブナの強烈な先制パンチによってこれから始まる一大叙事詩の一端を的確かつスムーズに伝えている。そして、この場面のこの独白は非常に演劇的である。

ただ、このアンナ・パーブロブナという人物は全編を通してずっと登場しているのだが、自分の中ではその他の何人かの女性キャラクターとごちゃまぜになってしまい、最後まで明確な輪郭を与えられないままだった。


ま、それは良しとしてこの本のすごいところ。

3000ページ近く読んだにもかかわらず、耳を付けたのはほんの数箇所に過ぎなかった。

大体一冊が読み終わるかなと思ってからまだまだまったく終わらないでイライラさせられた。

社交界と戦争という相反する2つの世界によって当時の時代背景と世界観を豊富に伝えている。

クトゥーゾフが何もしないとか某の騎馬隊がどうとかいう戦争の描写は読み応えがあるが非常に冗長。

そろそろ飽きたな、と思った頃に社交界側の世界に舞い戻ってくるので、サウナ的な感じで(自分は喘息の発作が怖いのでもはや楽しめなくなってしまったが)楽しめる。

ようやく読み終わったと思ったら果てしない謎のエピローグが延々と続く。


大変お恥ずかしいことに、トルストイの名前はもちろん知っていたし戦争と平和やアンナカレーニナも知ってはいたが、読むのは初めてだったので内容を全く知らずに読み始めた。

そして、どうやらナポレオンとの戦争の話のようだとわかったのだが、それがフィクションなのか、事実に基づく歴史小説なのかがわからない、だが調べるのも癪だとおもって最後まで読んでから調べてみると、基本的には歴史的な事実をベースにした小説とのこと。ナポレオンがロシアまでいってなんならモスクワを占領していたなんて知らなかった!

戦争と平和というタイトルもいわくつきらしいのだが、よく出来たタイトルだと思う。誰でも知ってるし、簡単に覚えられる。だが、読み終わってから見直すと、戦争と愛、のほうが内容的にはしっくり来るかもしれない。

だが、上記の通り、戦争部分と社交界部分を交互に提供するサウナスタイルで読者を飽きさせないようにしているだけで、エピローグを読む限り、もっともっと大きなテーマを扱っているから、愛という言葉によって変な先入観を与えるのも良くないだろう。


450人程度いる登場人物の中で、気に入っていたのはボルコンスキー公爵。

彼は明らかに作者からも特別な恩寵と敬意をもって描かれているように感じた。

彼は激昂しやすい他の登場人物に比べて冷静で、思慮深く、そして美しいのだが、人間としては冷たくて人にはあまり好かれていない。この男が最強に狂った父の前で非常に優しく、大人として振る舞うシーンで一気に彼のことを好きになった。

一方で最初から奔放で最後までバカっぽい雰囲気が抜けきらなかったのがピエール伯爵。彼には何も無い。なにもないところに父の遺産で引き伸ばされた風船の表面積に様々な事象が載るのだが、やはりすべて表面的に過ぎず、彼のことは最後まで好きになることがなかった。

最終的に好人物として描かれるナターシャとマリヤ嬢が表面的な社交界から距離をおいて家庭に身を捧げていくという描写も時代的には先進的なものなのかもしれないが好意的に受け止めた。



450人もいる登場人物それぞれに明晰な観察の上に立つ性格や人物像が与えられているのだが、それが非常に良く出来ている。

例えばこの一節。第3巻からプフールというドイツ人の偉い軍人の描写と見せかけて痛烈にヨーロッパ各国の風刺というかステレオタイプというかクリシェを展開している。


「プフールは、もう治療の見込みがないほど、狂信的にまで自己過信に凝り固まっている人々の一人だった。こういう人間はドイツ人にしか無いが、それは科学という抽象的理念、すなわち完全な心理の観念的認識の基礎の上に立って、絶対の自信を持つことができるのは、ドイツ人だけだからである。フランス人が自信を持つのは、自分が頭脳も肉体も、男性をも女性をも無抵抗にするほど魅力的であると考えるからである。イギリス人の自信は、自分は世界で最もよく組織された国の公民であるという基礎の上に固定している、だからイギリス人は、イギリス人として何をなすべきかを常に知っているし、イギリス人として自分がなすことはすべて疑いもなく立派なことである、と心得ている。イタリア人が自信をもつのは、自分が熱狂しやすく、自分をも他人をもあっさり忘れてしまうからである。ロシア人が自信をもつのは、まさに、自分は何も知らないし、知りたいとも思わないからであり、だからロシア人は、何事も完全に知ることができるなどとは信じないのである。ドイツ人の自信は最も始末が悪く、もっとも頑強で、もっとも鼻持ちならない、というのは、ドイツ人は、自分は真理を知っている、それは自分が考え出した科学で、これこそじぶんにとって絶対の真理であると、思い込んでいるからである。」


イギリス人とイタリア人はほとんど出てこなかったがフランス人とドイツ人とロシア人に関してはこの描写をベースに人物像が作られていた。



次に、宗教に関する鋭い洞察。第3巻から。ナターシャがスキャンダルを起こしてバグった後に宗教に救いを求めているとき。


「ナターシャは心をすっかり開いていたので、この祈祷に強い感銘を受けた。…。しかし彼女はこの祈りで神に何を頼んでいるのか、よくわからなかった。彼女は、心を清くすること、信仰と希望で心を強くすること、愛によってかれらを鼓舞することの祈りに、心のありたけで参加していた。しかし彼女は、わずか数分前には敵を愛し、敵のために祈るためにのみ、敵を多く持ちたいと願っていたので、敵を足下に踏みにじることを祈ることが出来なかった。しかし彼女はいまひざまずいて唱えられている祈祷の正しさを疑うことはできなかった。しかし彼女はひざまずいて唱えられている祈祷の正しさを疑うこともまたできなかった。」


宗教の矛盾をストレートに語りながら、信者たちは迷える子羊よろしくその大きな流れには抗えないことを示している。その後ナターシャはいろいろなことを経験するが、大局的に見て宗教からは遠ざかり、現実に目を向けるようになっていく。



第2巻。後半で何度も思い出されるアンドレイ公爵とピエールの会話。

アウステルリッツの戦いで負傷して禿山に戻ってきて2年が経ったアンドレイ公爵を訪ねるピエール。かつて二人のあいだにあった関係の輝きや知的欲求や希望から大きく異る世界になってしまった。


「僕がこの世に知っている現実の不幸は二つだけだ。良心の呵責と病気。だからこの二つの悪さえなければ、それが幸福なのだ。この二つの悪だけをさけながら、自分のために生きる、これが目下のところ僕の叡智のすべてさ」


「神があり、来世があるなら、真理があり、善徳があるわけです。そして人間の至高の幸福は、それらのものの達成を目指して努力するところに存するのです。生きなければなりません、愛さなければなりません、今この大地のちっぽけな一部分にのみ生きているのではなく、永遠にあの全宇宙の中に(彼は大空を指差した)、過去も生きてきたし、未来も生き続けるのだということを、信じなければなりません」



第4巻。様々な経験をしてまたしても心模様がガラッと変わったピエールの考え。

この男は表面ばかりの男なので、如何ともし難い。なぜ周りの人が彼に惹かれるのかはずっと疑問だ。最初は大金持ちになった体が、後半ではその金銭的な有意差というものはあまり前面に出ていないにもかかわらず、影響力も持ち続けたし人々に愛されていた。


このごろ彼はよくアンドレイ公爵と交わした話を思い出し、彼の説にほぼ同意していた。ただし彼はアンドレイ公爵の考えをいささか別なふうに理解していた。アンドレイ公爵は、消極的な幸福というものがあるだけだ、と考えており、そう語ったが、そう言う彼の口調には苦さと皮肉のニュアンスがあった。そう言いながら、彼はその裏の考えを−我々の胸に植えられる積極的幸福へのすべての渇望は、要するに、みたされるものではなく、われわれを苦しめるためにのみ植えられるのだ、ということを語っているかのようだった。しかしピエールは、すこしの裏の意味もなく、この言葉の正しさを認めた。苦悩がないこと、要求がみたされること、そしてその結果、職業を、つまり生活方法を自由に選べること、これがいまの’ぴえーるには人間の疑いもない最高の幸福に思われた。



エピローグ。生き残った登場人物たちは概ね幸せに暮らしている。

意外なところから結ばれたニコライとマリア嬢が愛を語る。

美しいから愛しいんじゃない、愛しいから美しいんだよ。というのはなかなかの金言だと思う。


「おやおや、おかしなことを言う女だね、きみも!美しいから愛しいんじゃない、愛しいから美しいんだよ。美人だから愛されるのはマルヴィーナとかそうしたたぐいの女だけさ。妻をぼくが愛してると思うかい?愛してないよ、そんなことじゃないんだ、うん、どう君に説明してよいか、わからんな。きみがいなかったり、こうしていまみたいにどこかの意地悪猫にあいだをかけぬけられたりすると、僕は気がくじけたみたいになって、何もできなくなってしまうんだよ。ねえ、ぼくが自分の指を愛してるかね?愛してないさ、でも、指を切ったとしたら…」



エピローグ第二部

本当に長い。これまでももうすぐ読み終わるかなと思ってから何時間もかかっていたが、四冊の長編を読み終わってからのこの長さのエピローグ(しかも物語とは関係のない思想の話で論理的に描かれているようだけどかなり内容があっちに行ったりこっちに行ったりで文体としても読みにくい)は途中で止めてしまおうかと思ったくらいであった。

しかしながら、この部分に戦争と平和の核となるアイデアが隠されていることは明らかだったし、物語にのせてだけでは描ききれない彼の深い洞察と思考、そして更にその先にある展望のようなものを十二分に感じ取ることが出来た。


「人間は、人類の全体の生活との関係において、この生活を決定している諸法則に従っているように思われる。ところがその同じ人間が、この関係に拘束されずに、自由のように思われる。諸民族と人類の過去の生活がー人々の自由な、あるいは拘束された活動の産物として、どのように検討されねばならぬか?これが歴史学の問題である。

ただ現代のような、知識の通俗化の自信過剰時代には、図書出版の普及という浅学のきわめて強力な手段のおかげで、意志の自由についての問題が、問題そのものがありえないような地盤に移されてしまうだけである。現代はいわゆる進歩的な人々の大多数が、つまり無学者共の群れが、問題の一面をあつかう自然科学者たちの仕事を、問題全体の解決と思い込んでいるのである。」


なんとも痛烈な批判か!この本が書かれたのは1869年なので、150年以上前だ。そもそもここに至るまでに、歴史学とか群衆とか、自由とかに関してつらつらと書いているのだが、それがこのあたりで途端に鋒鋭く現代への批判に転じていく。

”知識の通俗化の自信過剰時代”というのは今私達が生きている現代にこそ当てはまりそうなものだが、150年前の当時からトルストイのような知識層はかねがね感じていたのか。いまではインターネットの普及とかショートビデオの普及によって浅学の危険性が謳われていて、本にこそ正義を求めているが、当時は本自体が浅学の手段だったとは。

そして、ここで非常に勉強になるのが、科学が万能ではなないということだ。それに関しては最近の経験からも明らかだ。

例えば、数十年前まではうつぶせ寝が科学者達によって推奨されていた。しかし、死亡事故が相次ぎ別の科学者がやめるべきという運動を繰り広げて今ではうつぶせ寝の禁止は言わずもがなの一般常識となっている。

今この時代に科学的に証明されたとされている考え方も、数十年後には全く間違いだったことが新たに科学によって証明されるかもしれない。なぜなら、科学的といっても飽くまでひとがあつかうものであり、そこから恣意性を抜くことは不可能であるからだ。民間伝承やウワサよりは信頼性が持てるのではないかと思える理由はただ単に、分析している事例数が多いこと、その専門とされている人たちの検閲にかなった情報を科学的、として発信されているからだ。



「 当時の天文学の問題においてもそうであったが、現在の歴史の問題においても、見解のすべての相違は、目に見える現象をはかる基準となる絶対的な単位を認めるか、認めぬかから起こっている。天文学においてはこれは地球は動かぬということであった。歴史においては―これは個人の独立―自由ということである。

 天文学にとって、地動説を認めることの難しさが、地球が動いていないことの直接的感覚と、遊星が動いていることの同じく直接的な感覚を、拒否しなければならぬことにあったが、同様に歴史にとっても、空間と時間と原因の諸法則に対する個人の従属を認めることの難しさは、自分の人格の独立という直接的感覚を拒否しなければならぬところにあるのである。しかし、天文学において新しい見解が、『たしかに、我々は不条理に行き着いてしまう。われわれが感じていない運動を仮定してこそ、われわれは法則に到達するのだ』と語ったが、―同様に歴史においても新しい見解は、『たしかに、われわれはわれわれの従属を感じていない、だが、われわれの自由を仮定すれば、われわれは不条理に行きついてしまう。外界と時間と原因に対する自分の従属を仮定してこそ、われわれは法則に到達するのだ』と語っているのである。

前者の場合は、空間における不動の意識を拒否して、われわれに感じられぬ動きを認めなければならなかった。現在の場合も―全く同じように、意識される自由を拒否して、われわれに感じられぬ従属を認めなければならないのである。」


たとえ話をつかってわかりやすくしてくれているようで、文章がこんがらがってくるので難解な印象を受けるが、この部分がこの長大な本の最後である。結局何を言っているかと言うと、『人間は個々人が自由に考え行動しているように見えるが、それは間違いで、ある法則のもとに従っているだけなのだ』ということ。この考え方はマトリックスに通ずるもので非常に興味深いのだが、なぜこのひとは法則にそこまでこだわるのか、というのがわからないだろう。だが、この本の後半、特にナポレオンの意味不明な進軍と逃走を俯瞰してみるとそこには個人の意思や自由というよりも運命(という言葉は正しくないが)に導かれているようで、そのナポレオン軍を構成する何万の兵士たちの動きを微分して考えてみると、彼らにも自由意志があったようで実はある法則に従っているようにしか見えない、という事に気づいてしまったのが発端である。それを第4巻では長々と何度も繰り返すように語っていた。

この考えに惹かれる理由としては、自由に生きているようで実は何ものかの法則に従っているだけの従属ないしは隷属状態というのはデストピア思想でわれわれのマゾヒスティックな部分を刺激する。マトリックスの場合はそのなにものか、に対しての闘いと、その法則事態に気づいてしまうかどうか、というスリルに加えて、なにものかたちの試行錯誤まで描かれているからやはりずば抜けた作品になっている。なんだか、マトリックスへの導入のようになってしまったが、150年以上前に、こんなことを考えていたひとがいた。そしてそれをこんな長大な物語にしていたというだけでも驚きなのだ。

そういえば、書き忘れていたが、日本のビジネスパーソンのお気に入り書である「失敗の本質」なんかも戦争分析という点では非常に似ている性質のものだと思って前半は読んでいた。失敗の本質が組織論とか経営論にベクトルが向くのに対して、こちらでは物語性というか哲学的な虚構にベクトルが向くので、より深みと面白みがある。



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