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『ゴリオ爺さん』 バルザック

先月は本を五冊読んだ。戦争と平和1〜4巻とこのゴリオ爺さんだ。

戦争と平和は700ページ前後×4冊なので離職中の今くらいしか読むタイミングが無いな、と思っていたのだが、それでもちょっと怖気づいていたので先にゴリオ爺さんから読み始めた。

意外にも、初バルザックだった。

バルザックって名前は誰しも聞いたことがあるかもしれないが、詳しい著作については意外にあまり知られていないのではないか?確かパリに住んでいるときにバルザックの家に観光で訪れたことがあったが、一冊も本を読んだことがないくせに、これがバルザックの家かぁなんて感心していた。

バルザックの代表作はこのゴリオ爺さんだが、この作品を含む人間喜劇という巨大なスケールの作品群が彼の作品のようだ。


話の内容は、田舎から出てきたラスティニャック青年がパリの社交界に憧れて、若者特有の厚顔と強運によって成功を収めていく中で、同じ安下宿に暮らすゴリオ爺さんと社交界に出入りするその二人の美しい娘たちをめぐる群像劇が繰り広げられる、というもの。

場所というか生活水準のレイヤーでは社交界と安下宿の2つの世界を行き来しながら物語が進んでいく。



娘が生まれてすぐのタイミングにこの本を読むことができたのは本当に幸運だった。

つくづくこういうタイミングの運に恵まれていると思う。

ゴリオ爺さんは若い頃から人間として大変つまらない人間だったのだがそのような人間によくあるように商売には長けていた。そして、妻をこよなく愛していた。その愛の大きさと彼の商売の成功は彼のつまらなさの反動で大変大きなものだった。

愛していた妻に先立たれ、二人の娘と残されたゴリオ爺さんは、妻に注いでいた愛をそのまま娘に向けた。

娘たちは愛され、とんでもなく甘やかされて育っていった。

いつしか、ゴリオ爺さんは熱心にカネを稼いでいた商売も引退した。

商売に向けていたエネルギーが更に二人の娘に向かい、ゴリオ爺さんの愛はますますエスカレートしていくのだが、それに反比例するように娘たちはゴリオ爺さんをただの金づるとしか見ないようになっていく。

結果的に言うと、そしてゴリオ爺さんは死ぬ。自分の持てる全てを娘に注ぎ込み、最後には捨てられて、死ぬ。

その姿をラスティニャック青年は見届けて、社交界に復讐を誓うのである。


この話の何がすごいかというと、とんでもなくくだらない社交界という世界と、そのとんでもなくくだらない世界にすべてを捧げているくだらなさの極みのような娘たちにすべてを捧げる父が結局は報われずに死んでしまうことだ。

見栄と欲望だけのくだらない世界。

そこに真の愛などない。

最後に残るのは虚しさだけ。


この本を読み進めていく上で楽しめるのが豊富で的確な人物描写だ。

例えば上記のゴリオ爺さんの人間性に関する部分なんかも、なんとなく自分でもそのように思ったことがあるような市井の人の観察と描写が読んでいるこちらが、あぁそうそう、と気持ちよくなるくらいでてくる。


あとは、主要人物ヴォートランの長口上。

これは古典とか名作とされている文学作品には必ず含まれているものだ。特に、フランス文学では話し上手な登場人物の口を借りて作者の意見や政治的な主張をすることが多々見受けられる。


『原理なんて無い。あるのは事態だけだ。法則なんて無い。あるのは状況だけなんだ。優れた人間ってのは事態と状況に適応する。そいつを操作するためにね。もし確固とした原理や法則なんてものがあったら、国民だってシャツでも着替えるみたいに気軽にそれを取り替えたりはしないだろう。』


意外にも折り目をつけていたのはこの文章だけだったのだが、とにかく面白くて先へ先へと読み進めたくなってしまう本であった。




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