『かぐや姫の物語』(映画)
Netflixの見たいリストに2年近くあって手を付けていなかったものだが、年末に『君たちはどう生きるか』を見た勢いで2025年の一本目として見た。
こんなに長い間リストに入っていて見なかった理由は、絵のタッチが手書きスケッチ風なのに二時間半?という点に限る。
結局、見終わってみるとその描写に心を動かされていたわけで、しかも二時間半があっという間だった。
そもそも、竹取物語のストーリーを知らなかったので、映画を見てずっと感心していた。
制作費ばかりかかってしまって興行成績的には失敗した作品とされているようだが、実にきれいな絵で、内容も面白く、知らなかった竹取物語についてもメモしておきたいのでここに書いておこう。
#絵について
画面の四隅がちょっとぼけるというか薄くなるというか、そういうカメラのレンズの機能あるよね、っていう効果は全編を通して気に入らなかったし、捨丸兄さんとのロマンチックシーンの描写は(映像的にはここがクライマックスであるはずだが)ちょっと不器用な感じがした。というのも、そこまでは比較的落ち着いた描写のなかにアクセントとして劇画調のシーンが挟まっていたりするのだが、ロマンチックシーンではその良さがあまり出ていなくて、地球の自然を愛でながら2人が駆け回った後に飛び回るのがあまり創造的とは言えず、飛び回る様もスーパーマンチックというか、トビー・マグワイアの『スパイダーマン』で摩天楼を飛び回るシーンを見たときのようなオリジナリティのある映像に感動することも無かった。月からの使者がやってきたときはちょっと東南アジアの胡散臭い寺感もありながら(多分、極楽浄土を大げさに描くことでコメディ化させていた)、雲にのった一団がひょーとやってくる描写に目を奪われただけに、残念だった。
とはいえ、2ヶ月の赤ちゃんと家にいる身としては、序盤で一転がりするたびに大きくなっていくタケノコの様子を見て羨ましいような、もったいないような、後から振り返るとこんな感じなのかな、と想像したり。翁の手の中で光りながら眠る姫の姿の絵を見て、この映画には期待できると思わせる力があった。
その後のシーンでも最初は脱力系の描き方なのかな、とちょっとバカにしていたのを恥じ入るような美しい描写ばかりであった。月夜の大通りで一人、十二単衣の衣が一枚ずつ脱ぎ去られて走っていくシーンなどは最上級か。また、覚えているのは絵巻物を1センチずつくらいめくって楽しむ教育係に対して一気に広げてしまい絵巻の特性を動的に(現代人は中途半端に開かれたものを博物館で見るしかできない)表現していてきれいだったし、羨ましかった。多分、かぐや姫のように楽しむことができる頭の良い人もいるのだろうが、自分は教育係的にノロノロ見てしまうのかな〜なんて思って勝手に落ち込んだりもしていた。
故郷の大木が寂しそうに枯れて立っている絵は少々誇張がされすぎているし、日本的と言うよりはどちらかと言うとディズニー的な描き方のような気もしたが、後からちゃんと回収されていたので納得。あ、今思えばあれは長野の孤独な桜の木がモチーフになっていたのか?そういえばそのすぐ近くで始まるかもしれなかったプロジェクトはどうなったのだろうか。
#物語について
そもそもの物語をしらなかったので、おさらいの意も込めて。
『竹取物語』自体は日本最古の物語と言われており、作者不明。9世紀後半から10世紀前半に成立されたとされている。
話の内容はこの映画とほぼ同じようだ。
富士山の名前の由来だったり、恥を捨てる、甲斐があると言った言葉の由来にもなっているとか。
最古の物語にしては出来が良すぎるのではないかと訝しんだ。
竹取の翁が森で光り輝く竹を見つけて切ってみるとそこには小さな姫がいた。
嫗との間に子供がいなかったが、2人は子育てをする。
同じ竹林で竹から黄金を見つける日々が続いたので翁は大金持ちになる。
姫はあっという間に大きくなり、見るも美しい女性になった。
初潮を迎えたので盛大に三日三晩の宴を催した。
世にも美しい姫ということで評判が広がり求婚者がたくさん集まる。
貴族の5人も我先にと求婚するが、かぐや姫に無理難題を突きつけられる。
散財や冒険の果に嘘の報告をしたのがバレて皆失格。
自分の姿を見たこともないのに求婚してくる男たちに嫌気が差しているかぐや姫。
噂を聞きつけた帝が興味を持ち、無理やり面会することに。
この世のものとは思えない美しさに惹かれるが、かぐや姫はそんなことないんですけど。。
(ここは原作と映画では大きな隔たりがある)
実は月からやってきたのでそのうち迎えが来て帰らなければなりません。
武装するも満月の夜にやってきた月の使者たちに連れ去られてしまう。
#ジェンダー的視点から見る
この月の使者が語るに、かぐや姫は罪を犯したのでその罰をこの穢れた地で受けることになっていた。
その罪とは何だったのか、罰とは何だったのか、というところで様々な考察がなされているのだが、映画のキャッチコピーも見ずに、原作も知らずに見た自分はそもそもそんなことすら考えなかった。
だが、過去に同様に穢れた地で時を過ごした女性が月の世界ですべてを忘れてしまう天の羽衣を羽織っているにも関わらず地球の歌を悲しそうに思い出して歌っているのを見て自分も地球に行ってみたいと思った、というシーンが解せなかった。
しかも映画の中ではそれが罪、のように描かれていた。
わからないことだらけだが、一応仮説として考えをまとめておこう。
そもそもこの子は天上世界でも姫とか王女のような高貴な存在で、天上世界は地上世界を治めるというか、関係性があるので、通過儀礼的に一部の天上人は教育実習的に地球に下ろされることになっている。
ジェンダー的な議論はまったくない時代の話なので、女性のみがその役割を果たす事になっている。
教育実習が済んだら天上世界に帰り、地上のことはすっぱり忘れて天上の殿のお相手をする一人前の天女になる。
だが、かぐや姫が見た一人の天女のように、地球での記憶が残ってしまっている人は悲しみなど無いはずの天上世界に異端として存在してしまう。それが罪。罰として別の天女がまた地球に下ろされる。
天上世界ではおそらく妊娠出産という流れがないので親子の関係などはないと思われる。
こうしてまとめてみると、大きな視点で見た時にこの物語はジェンダーを語る上で非常に面白い内容になっている。
自信の仮説の最後に一文を加えるとすると、キリスト教ですべての人が原罪を背負っているのと同じように、この物語の世界ではすべての女性は穢れを持っている、という考えが下敷きになっているようにも感じられるのだ。
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