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ハノイ大聖堂礼拝堂 擬越風建築


ハノイ大聖堂の裏手、といっても今日のように大聖堂が閉まっているときは大分遠回りしないと入り口にたどり着かないところに礼拝堂の入口がある。

自転車に乗って特にこれといった目的地も持たずにマグロのようにただただひたすら前に進み続けていたのだが、ホアンキエム湖の亀の塔が目に入ったときに、湖に浮かぶような佇まいに目を奪われて自転車をとめて歩き始めた。実は亀の塔を見つける直前に右手に大聖堂がちらっと目に入っていた。

熱に浮かされたように一人自転車にまたがっていた自分にとっては、木陰と黄色の建物のリズムがいかにも南国という感じがするものの周囲の喧騒から切り離されていた礼拝堂の入り口は非常に魅力的に見え、吸い寄せられるように入っていった。

ハノイの街の歴史的建築によくあるこの黄色の外壁だが、植民地支配をしていたフランス人にとっての南方趣味に起因するらしい。プロヴァンスなどの南仏に行くとたしかに黄色い壁の建物が多い。黄色=南方という大変単純な意味付けでフランス人建築家たちはこの黄色を多用したようだ。

さて、この建築の何が面白いかというとコロニアル様式が日本の擬洋風建築のようにアンバランスな状態で表現されているところだ。写真を何度も見返していると擬洋風というよりもベトナムにきたフランス人がベトナム風につくった建物のように見えてきたのでこれを擬越風建築と呼ぶことにしよう。

屋根架構は現地寺院と同様のもので、瓦も伝統的なものである。1階の柱は西洋型角柱で2階の柱は在来の木柱である。そのコントラストをはっきりと見せるためか、西洋式の部分は黄色、現地様式の部分は臙脂色に塗り分けられている。

そうか、思えばこの様式は卒論の研究対象だったタイの高床式住居と同じで、1階部分は堅固なコンクリートで2階部分は木造ということだ。タイの場合は水害対策として、木造の柱をより丈夫なコンクリートの柱にすげ替えていたのでコンテクストは全く別だが、素材の形式的には同じだ。

もともとは2階部分のベランダは床が貼られておらず、ただ手摺が宙に浮かんでいる謎の形態をしていたそうだ。そして以前の写真を見ると現在では臙脂色に塗られている部分は黒く塗られていた。キリスト教の礼拝堂のはずなのに、なんだか寺っぽいと思わせるレリーフは黄色の壁と同化していた。

手摺のデザインも現在のいかにも洋風の装飾を施したものではなく、かつてはバッテン印のものだったようだ。

もともとは植民地支配を強めるための政治的思想があって生まれたコロニアル様式の建築だが、当然現地の気候風土に合わせなければ成立しない。そういう背景があり、施設運営上の生命線である屋根は現地のものを採用していたのだろう。その他のデザインやディテールについても当時の状況がひとつひとつに反映されていたはずだが、修復や維持管理をしていく上で少しずつ変化が加えられてきたことは確かで、その変化というものは必ずしも思想や意味があったわけではないかもしれないが、そこにもその時々の時代が反映されていたのだろう。そういう観点で建築を見直すことができたら街歩きももっと面白くなるだろう。

参考:建築のハノイ ベトナムに誕生したパリ 大田省一

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