客観者
労働とは一体なんなのか。
その疑問に対して回答できないままに社会に出て一丁前に働いているふりをすることはしないほうが良いと思って、僕はぷらぷらしているつもりだったが、フリーターという職業をこの疑問に対してどのように扱うのか、なぞ考えていなかったので今更になって焦りはじめ、ふとした時に何年も前の熱帯の記憶を思い出しては思いを馳せている。
自分が何者かになるということに対する恐怖はここ一年くらいで高まってきている。
浮浪者や身をやつした高齢者を明日は我が身という戦慄とともにみている。
だがしかしそこには同時にいっそこうなってしまいたいという甘く怠惰でどこまでも穢い心がある。
つくづく自分は行動の人ではない、ということを日々実感している次第である。
行動をしている時でも常に自分は客観的存在となっており、散々人に対しては、現在を生きていない、とか偉そうなことをいうが、自分が最も現在を生きていないのだということは最近改めて明らかになってきた。
美とはその一回性に宿るため、柘榴の国では美しいものは行為の後殺され、喰われてしまうらしい。
醜いものたちの美の記憶や経験はその一回性、神性を頼りにするという。
常に自分が現在を生きていないということの自覚は思い返せば小さな時からあったようだ。
客観者と傍観者は違うと思う。
僕は傍観者ではないと思う。
だからなんだっていうのだ、
ちょっと考えてみよう。