東京原人
君は原始人のようである、と時々人に言われることがある。
その理由として、空調機の不使用、携帯電話で電話ができない、薬を飲まない、等々。
確かに、高度に近代化された生活を好む日本人からみると僕のような生活スタイルは文明開化以前、どころか原始人のそれだと揶揄したくなるのもわかる。
だがしかし、僕は当然このようなスタイルを誰かに強いられてしているわけではなく、自分で選択しているのである。そしてそれは強い人間になりたい、という極めて馬鹿々々しい意志を背骨にしている。
外的な技術によって自身を変える(アップグレードする)ことに抵抗があるからだ。一度外的技術によってアップグレードされた身体はある一定の方向性をもたせられ、自身のなかに備わっているはずの力は弱められ、技術=外部に依存を強めていく。これはまさに、モダニズムの限界に直面した現代の姿といっても過言ではないだろう。
とはいえ、技術による変化を避け続けているといつの間にか21世紀の原始人になってしまう。それはボラットや星の王子ニューヨークへ行くで我々が滑稽に見ているものである。
ここで、以前読んだ『人類がたどってきた道』という本を思い出した。
”文化は「知の遺産」の継承 、つまり先代から受け継いだ知識の体系に自分たちの発見・発明による新しい情報を付け加え、次の世代に受け継ぐ行動を繰り返すことによって、維持され、発展していくものだ。”
それらは以下のような能力によって可能になっている。
”抽象的思考を行う能力、無限とも言える発見・発明能力、優れた予見・計画能力、シンボルを用いて知識伝達をする能力”
でも多分人類としてやらなければいけない(私達が人類という概念を持ち始めたが最後、こういうことは考えざるを負えないだろう)知の遺産の継承は僕以外の誰か偉い人がやってくれるだろう。
僕は抽象的思考を行って、無限とも言える発見からシンボルを用いて知識伝達をしていければいいのではないのかな、と思っている。
それこそ今まで僕が建築譚やArchidanceを通してやってきたことでもあるが、これらをどんどん展開していくことが僕のやること、だ。
自身のなかにある可能性だけをみて、対話を繰り返す原始人はかくして内省的になる、
なんて考えたこともあったけど知識伝達をしようとすること、されること、すること、できることが我々の特権であり本質でもあるのだから、いつまでも内向きになっていてはいかんです。