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人生の転機における私を取り巻く様々な感情 ③

試験にも落ちたこともなにかかけるかと思ったが特に書くことはなかった。

だが、友人の死という悲しみと娘の誕生という喜び、退職した自由を満喫したい怠惰、それに加えて試験勉強から開放された自由を満喫したい怠惰、そして試験に落ちた無力感、義理の家族の鬱陶しさに抱く噴懣など。そう、これが人生の転機における私を取り巻く様々な感情。


結局まだこれらすべての感情の吐露が済んでいない。


日本から飛行機で帰ってきたときにようやく見られたInside outではぼろっぼろにずっと泣いていた。生まれてくる娘のことを想像して感情移入してしまっていた。だが、これはもろもろが起こる前の話なので、ここで一度リセットされてから大変な数の感情たちが去来している。映画では、Sadnessは最初忌み嫌われるというか除け者にされていた。それは普通に考えてHappinessでいること、Happinessであったことのほうが良い人生だから。だが、この映画の核心は感情や記憶は単一のものではなく、複数が混ざり合うことによって構成されていることをアニメーションによって巧みに示したことだ。実際のところ今の自分はその混ざり合いがあまりにも複雑になりすぎていて処理できない状態になっているのだ。とはいえ、この映画を見たおかげで現在の状況を俯瞰して見ることができるようになっているので、それは本当に感謝だ。



さて、実生活に戻ってこよう。

赤ちゃんが家にやってきて、二週間は義母が家にいてとにかく居心地が悪かった。

・とにかく共通言語を持たないのでコミュニケーションができないし、

・頼んでもいない大量の米や野菜ともにやってきて、

・産まれたばかりの娘と一緒に過ごしたいのにそれを邪魔される、

・お風呂に入らせてあげたいのに必要ないとか、

・いざお風呂に入れるとなると変な雑草を煮込んだ茶色いお湯に入れられる始末、

・乳幼児突然死症候群SIDSが怖いので、ベビーベッドで寝かせたいと思うけど義母と妻の間に寝かせて布団やら腕やらでぎゅうぎゅうにして寝かせる、

・農家の汚い手で赤ちゃんを抱いたり触ったり、

・手を洗ってくれと言ってもアンタが何を知っているんだと叫ぶ、

・とにかく何を喋るにも大声で叫んでいて近所迷惑だし赤ちゃんの発育にも悪い、

・ベトナムでは(あるいは彼らの地方では?)赤ちゃんに対してポジティブなことを言うとその反対に育つようになると信じているので顔を見てはブサイクブサイクと叫んでいる、

・いつまでいるのかわからない恐怖、

・おむつの替え方が不適当で服やベッドが汚れたり、

・替えたおむつがおしっこだけだったからと言って再利用しようとしたり、

・自分が妻と義母のために作った食事は私は食べないの一点張り、

・妻にはこれは食べるなあれはするなのダメダメ規制地獄、

・炊飯器でお粥をつくるのに毎朝間違ってボタンを押していて炊飯器から米の沸騰汁が大量に毎朝吹きこぼれる、

などなどとにかくずっと気に入らない瞬間が続いていたのである。

・無論、赤ちゃんをじっと見つめていたら怒鳴られるし、

・写真を撮ろうとしても怒鳴られるのは義理の姉のときの経験と全く一致。

・そして本当にバカバカしくて言葉も出ないのが、赤ちゃん関連の洗濯物は手洗いですべし、そして乾かすときは絞らないこと。なぜなら絞った洗濯物のように赤ちゃんがねじれた人間に育ってしまうから、と言ってびっちょびちょの手洗い洗濯を干すので床はビチョビチョ、一生乾かない、

・厚手の毛布みたいなものは乾くのに3日かかった、、、

・その間ずっとベランダのドアは開けっ放しなので家中ホコリだらけ、

・義母は妻にあれこれ言うので、妻はそれを信じてしまう、

・それは時に正しく、時に正しくない(と思われる)、

・そうやって妻は誤った情報に洗脳されていってしまう、

そんな中でも妻が義母に対しても不満を持っている様子を見るにつけ、なんでこのひとはここにいるのだろうか、と本当に参ってしまった。


自分としては家族三人で暮らし、赤ちゃんの成長を間近で見て過ごすために会社を辞めたのだし、頼んでもいないのに勝手にやってきてあれやこれやと言ってくる失礼極まりない人に対して紳士的な態度も取れなくなり、次第に不満を顕にするようになっていった。

そうするとこの二人に挟まれた、最もケアされるべき妻が泣いてしまった。

悪いことをしたな、とは思いつつも自分の気持ちは変わらない。諸悪の根源は勝手にやってきた義母だ。もちろん手伝ってくれることは助かるし、赤ちゃんが可愛くて仕方がないというお祖母さんの気持ちもわかるのだが、自分から言わせてもらえば一言でいって”迷惑”で、”邪魔”なのだ。遅れてきた反抗期のような態度をとっているのはわかるのだが、若かりし頃に反抗期を体験しなかったから齢34にして絶賛反抗期中です。


こんな事を言ったら怒られるのは想像できるが、自分の娘を育てるのに、全く考え方の違う義母が干渉してくることに不満を持つことは当然だろう。こういうことはむしろ、新米ママが姑に抱く感情なのだろうが。おそらく、この数週間で、あるいは妊娠期間中からの数ヶ月でものすごい勢いで自分の中の女性ホルモンが爆発しているのだろう。


そんなこんながあって義母は2週間で帰った。その後の日々は甘く、時に酸っぱい、まさに自分が思い描いていた家族三人の生活であった。赤ちゃんが寝ないので二人して寝不足になったり、うんちの色がおかしいのではないかと心配になったり、唸り声が大きいので怖くなって色々調べたり、初めての外出で公証人役場とワクチン接種のために地元の保健所に行ったり、ワクチンを打った後なのでお風呂には入れないと言っているうちにどんどん赤ちゃんがサワードーのような饐えた匂いになっていったり、三食自分が作るので朝から晩までずっと台所にいるような気分になったり、赤ちゃんのあやし方をYoutubeで学んですぐに実践したり、意見の相違があって喧嘩をしたり、要は自分たちで試行錯誤しながら”生きて”いたのだ。

三人の生活も板についてきた2週間後、義母が野菜やら米やらを送るから受け取りに行くようにと言う電話があり、妻は受け取りをお義兄さんにお願いしていた。三人でうまくやっているので来なくて良いと何度も妻が念を押しているのは電話越しに聞いていた。

次の朝、寝不足もあっていつもより遅く起きてノロノロしていると聞き覚えのあるお義兄さんの声が。普段は家に入るのにシャッターを開けてあげるのにわざわざ下まで降りていかなければならないのだがどうやら今朝は大家さんに開けてもらったのだろう。急いで家のドアを開けてあげると大量すぎる米やら野菜やらの袋を抱えた兄と、


義母がそこにいた。



息が止まる思いだった。

まさに義母テロ。

妻もまさかの展開に驚いていた。

前の晩に2ヶ月近くぶりにビールを飲んで、普段とちょっと異なる食事を作って楽しんだこと、そして過ぎ去った甘酸っぱい家族三人水入らずの記憶が走馬灯のように駆け巡った。


今回は大量の米と大量の大根、大量の小さい魚、大量の豚の骨と肉、大量の蕪とともにやってきた義母。

そう、そしてその日から毎日三食全く同じ食べ物を作り続け、食べ続けた。

本当にレパートリーが一つしかない食事で、昼も夜も全く同じものを食べ続けているので時間の感覚が麻痺してくる。

そして、この義母は食べるということに喜びを見出すような人間ではないので、基本的には生命維持のための栄養摂取で、食事中に楽しい会話や笑顔、コレ美味しいね、なんていうシーンは全く期待できない。これにも大変悩まされた。パート1のときは自分で料理を作っていたのでなおさらストレスになっていたが、パート2では私は一切家事をしないことにしているので何も文句を言わず、とにかく耐え続ける。

だが、ぜひ冷静に考えてほしい。毎食大根と魚と米しか食べていない母の母乳は赤ちゃんの発育にとって充分な栄養を供給できているのだろうか?

トマトも食べてはならない、キャベツも食べてはならない、牛乳も飲んではならない、ヨーグルトも食べてはならない。どうやってビタミンCやカルシウムを摂取しようと言うのだろうか?

時代や生活は30年前の国内で最も貧しい田舎ではないのだ。

本当に勘弁してほしい。


今回はパート2なので、怒り心頭やストレスを前面に出さず、クールに無視し続ける。そして、やりたいならご自由に方式で食事も皿洗いも掃除も勝手にやりたいようにさせている。まったくもって無礼極まりない態度なのだが、こっちからしたら、勝手に、本当に身勝手にやってきた失礼な人を家に上げるのだって憚られるところを我慢して家に上げて、孫とも好きなだけ会わせてあげているのに、いつになっても帰らない居候という認識なので、礼儀もクソもあったもんじゃない。




アレをしてはならない、コレをしてはならない、という考え方というのは非常に腹立たしいもので、これは全く受け入れられない。

それに、自己犠牲を是とする基本姿勢は非常にバカバカしい。そもそも全く論理的でないし、非効率的だ。

アイアンマンがカミカゼ方式で自己犠牲をしたのとは全く文脈が異なる。

私の言う自己犠牲とはありとあらゆる日常生活上の細々とした自己犠牲だ。

それは、実は積み重なっていくと昨日書いた「82年生まれキム・ジヨン」の主人公がたどった道となる。

だから、この問題は氷山の一角だ。


これらを批判する姿勢を取るのはなぜなのか、

私は観察と証拠に基づく世俗主義者だから。

このあたりは以前の記事を参照と思ったがあまり内容が詰まっていないので今一度本を読んでおさらいしてみよう。



「21 Lessons 21世紀のための21の思考」ユヴァル・ノア・ハラリ


14章 世俗主義


それでは、世俗主義的な理想とはなにか?最も重要な世俗主義的責務は、真実に対するもので、真実とは、単なる信心ではなく、観察と証拠に基づいている。・・・

そのうえ世俗主義者は、いかなる集団も、人も、書物も、唯一それだけが真実を専有しているかのように神聖視することはない。その代わりに世俗主義者は、真実を神聖視する。



13章 神


忠実な信者たちは、神が本当に存在するかどうか訊かれると、得体のしれない宇宙の神秘や人間の理解の限界について話し始めることが多い。「科学にはビッグバンは説明できません」と彼らは声高に言う。「てすから、神のなさったことに違いありません」と。とはいえ、気づかれないうつにトランプのカードをすり替えて観客の目を欺く手品師さながら、信者はたちまち、宇宙の神秘を世俗的な立法者にすり替える。宇宙の未知の秘密に「神」という名を与えてから、このすり替えを使って、どういうわけかビキニや離婚を避難する。「私たちはビッグバンが理解できません。したがって、人前では髪を覆い、同性婚には反対票を投じなければいけません」と言う。両者にはなんの理論的繋がりもないだけではなく、じつは両者は矛盾してさえいる。宇宙の神秘が深いほど、何であれその原因となる存在が、女性の服装規定や人間の性行動など気にする可能性は低くなる。

・・・

・・・科学によってわかっている限りでは、こうした神聖な文書はすべて、想像力に富んだホモサピエンスによって書かれた。それらは、社会規範や政治構造を正当化するために、私たちの祖先によって創作された物語に過ぎない。




日常生活で見る規制や自己犠牲に関する考え方はここまで大きな話ではないかもしれないが、基本的な構造は同じだ。例えば、昨晩の出来事を記してみよう。


妻は腰が痛いのでマッサージしてほしいと私に言った。

私が妻の腰をマッサージしていると、横から義母が夕飯に鶏肉なんて食べるから腰が痛くなるんだと言った。


世俗主義の私からすれば、「そうですか、では鶏肉を食べて二時間後に腰が痛くなるという事象を証明できる論文、でないにせよ信頼に足る文献やウェブサイトを提示してください」と考える。今は冷静だからこんなふうに書いているが、実際のところは「は?何バカなこと言ってんだよ。黙れ」か「はいはいそうですかスイマセーン」だ。

一方で、腰の痛みと鶏肉を結びつけてしまう義母の思考回路には前述の「私はビッグバンが理解できません。したがって、、、」の構文が適用できる。

ここからは想像の域を出ないのだが、貧しい農村では食べられる食物の種類も量も限られていた。そんななか、おばあさんのそのおばあさんから伝え聞いてきた、「コレ食っとけばなんとかなる」というものを食べつないできた。とりわけ妊婦、授乳期の女性にはより細かい「コレ」があった。だが、隣集落の農家はある時から急激に利益を伸ばし、蓄えた富で好きなものを好きなだけ食べられるようになった。当然妊婦や授乳期の女性にもいろいろな食物が与えられ、その赤ちゃんはどんどん大きく育っていった。それを傍目で見ていた人々は、嫉妬やら羞恥やらの感情から、自分たちのしていること(自分たちができること)に対して執心し、それこそが正しい、それ以外は正しくない、と思考停止状態に陥ってしまった。

それが義母の世代なのか、もっと前の世代なのかは知らないが、これが自分が考える筋書きだ。

彼らには教育も経験も無いので、好奇心すらも押し殺され、思考停止状態に陥っていることを理解することもできなければ、認めることもできない、そして当然自らの思考停止こそが正義、神と信じているので他人にもそれを強要する。

この筋書きはありとあらゆる意味のない「規制」や「自己犠牲」に通底する。非常に残念ながら。





人生で最高に幸せであると言われているこの時期に、こんなくだらない感情に取り巻かれている。

が、この文章の最初に紹介したInside outのように、どんなハッピーな記憶の中にも実は様々な感情が取り巻いているのだ、とわかったのでそれを忘れないようにするためにここに克明にルポルタージュを残すのである。




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